フォルスター『一七九〇年回想録』より、「フリードリヒ・エヴァルト・フォン・ヘルツベルク伯爵」

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エヴァルト・フリードリヒ・フォン・ヘルツベルク伯爵

 一八世紀後半のプロイセンで有名な政治家といえば?と聞かれれば、普通はフリードリヒ二世の名前があがるだろう。しかしどれほど絶対主義的な国家であっても、下働きとして有能な官僚がいなければ政治はまわらない。ここで取り上げるヘルツベルク伯爵もそういう官僚の一人で、フリードリヒ二世およびフリードリヒ・ヴィルヘルム二世の二人の君主のもとで、主として外交問題を担当した人物である。また彼は、一七八〇年から一〇数年の間ベルリン科学アカデミーで毎年講演を行い、その中でプロイセンの政治方針を正当化したり統計調査の結果を公表したりした、一種の文筆家でもあった。

 その彼について記述した同時代の史料は枚挙にいとまがないほど沢山あるが、ここではあのゲオルク・フォルスターの記述を訳出してみた。彼が一七九三年に出版した『一七九〇年回想録』は、一七九〇年にヨーロッパ各国で起こった政治的事件を絵付きで紹介する著作だが、この著作の最後でヘルツベルク伯爵およびウィリアム・ピット(小ピット)が取り上げられている。ヘルツベルクが取り上げられるのは、一七九〇年にプロイセンオーストリア間で結ばれたライヒェンバッハ条約が直接の理由であろうが、一七九三年一月には第二次ポーランド分割がプロイセン・ロシア間で行われていたことを考慮すると、ヘルツベルクの外交政策の基本方針を勢力均衡に求め、これを維持しなければプロイセンの国際政治上の地位を確保できないと示唆するフォルスターの書きぶりは、当時のプロイセン外交政策に対する批判を意図しているように思われる。フォルスター自身の政治観を知る上でも(というよりもむしろフォルスター自身の政治観を知るためにこそ)興味深い史料である。

 

出典:Georg Forster, Erinnerungen aus dem Jahr 1790, Berlin 1793, S. 221-232.

 

 今日、二五〇〇平方マイルより大きな面積の国土で六〇〇万そこそこの住民を養うある小さな君主国が、その強靭さ、動員力、そしてその力の合目的的な利用によって、ヨーロッパの第一級の勢力、すなわちオーストリア、ロシア、イギリス、フランスと同等の地位に立ち、それらの勢力同士を絶えず揺らし続けている天秤においてそれぞれと比肩しうるほどにのし上がった。これらの勢力のうち最弱のイギリスは、人口数に目を向けると、ヨーロッパでは実に二倍をはるかに越える住民を、つまり一三〇〇万から一四〇〇万の住民を抱え、アジアでは東インド会社によって上記の数よりも多くの臣民を支配している。オーストリア、ロシア、フランスはそれぞれ、二〇〇〇万から二六〇〇万の人口を抱えている。

 これほど興味深い現象がどのような特殊な事情の結合によって今世紀に起こり得たのかをもう少し詳しく検討してみると、賢明な国政術の実証済みの単純な原則を堅く守り抜いたことが専ら、歴史の年代記に類例のないこのような唯一無二の結果をもたらすことができたということがすぐ分かる。全く負債のない国家、どこでもこれと同じほど貯め込むことのできない国庫、この偉大な目的を実現しただけでなく、ヨーロッパで――従って地球全体で――凌駕され得ない兵員数二〇万以上の軍隊を維持するための手段をやすやすと生み出すことのできた倹約的な行政にあっては、節度(Mässigung)が不動の原則であった。それに従ってプロイセンの官房は――ここで話題になっているのがこの官房であることを誰が疑うだろうか――ヨーロッパの命運に絶えず影響を及ぼした。節度、これは確かに、人間の名声欲、野心、強欲な性分の全てからすると、あまりにゆっくりとしか歩を進めず、ほとんど何も達成するところがないように見える。しかしプロイセンの場合、これは依然として間違いなくプロイセンの不可欠な拡大に向けて邁進しており、最終的にはその君主に、諸国の政治的均衡を仲裁する権力を付与するだろう。このことは、隣国全ての福祉と幸福に対する彼の神聖なる尊敬の念がますます彼のもとに信頼を集めるに違いないだけにいっそう確実である。この賢明なる節度は、ヨーロッパの政治的案件のその都度の状況に対して隙のない監視の目を向け、そして遠く将来を見越して、所期の目標を達成できると確実に期待できるまで決して駆動させられてはならない国力を節約することと結びついて、強圧的な征服の体系をはるか彼方に置き去りにし、確かに一瞬の間は輝かしい利益を約束するがほとんど常に危険な弱体化を結果として伴うあの軽率な行き過ぎなど眼中に入れない。何故なら実証済みの回復手段を利用することがいつでも可能なわけではなく、誰もが上手く利用できるわけではないからである。

 これと正反対の国家運営がもたらす悪しき帰結をどこか遠くに求める必要はない。フランス、オーストリア、ロシアの国力がそれらの人口と釣り合っていないことを見れば、その悪しき帰結は十分よく分かる。私がここでイギリスの名を挙げないのは、イギリスはたとえフランスと同じ額、つまり一五億重ターラー*1に相当する負債を抱えているとしても、膨大な海運業と商業によってその国債は維持されるからである。オーストリアとロシアの国債は総額の上ではより小さく見えるが、ただし産業がより乏しく資源が欠けている関係からして、それらの国債は基本的にはおそらく同じくらい財政を圧迫している。巨大な国家機械の装置がこれほど極度に緊張しているところでは、わずかな政治的重要性しか持たない企ての一つ一つが、人が残りの手持ち全てを賭ける危うい賭けに変わる。偶然には何も許さず、また逆に偶然に何も期待せず、英知、節制、慎みをもって自らの計画をその真の力を基準にして測る、慎重で、注意深く、冷静な家長に幸いのあらんことを。

 プロイセンの権勢の基礎がどれほど堅く永続的に、大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムや国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世によって据えられたとしても、彼らそれぞれの後継者〔フリードリヒ一世とフリードリヒ二世〕があれほど立派な建物を立てたのは、穴ぐらの上でしかなかった。この建設作業が完了したのはフリードリヒ二世の治世の最晩年であって、現在の君主のもとでその作業は続けられた――これは、これらの統治者たちが講じた措置と、深い洞察力を備えヨーロッパの情勢を完全に網羅しているある大臣の原則とが上手く調和したことの帰結である。実際、ヘルツベルク伯爵の長きにわたる政治経歴は、小さな王国から非常に強力な王国を形成しようとする巧みに仕上げられた実践的な試みと呼ぶことができるだろう。実績豊富な四三年の間、彼は一人で同時代のヨーロッパのあらゆる大臣よりも多くの官房業務を引き受け、どんな種類の宣言書(Staatsschriften)*2も自ら作成し、講和条約や同盟条約を発案し、起草し、それらに副署した。とはいえ彼はプロイセン君主政内部の案件から完全に離れたり、諸学の育成を放棄したりはしなかった。一七四五年以降ヘルツベルク伯爵は外務省で勤務し、すでに一七五六年には、七年戦争が始まる合図となった出兵をプロイセン王が開始する動機、とりわけ王に対抗して結ばれた同盟を示す真正の証拠を含む宣言書を執筆した。

 しかし、ヨーロッパの命運に対する彼のより有益で強力な影響は、一七六二年にプロイセンがロシアおよびスウェーデンと結んだ二つの講和条約によってようやく及び始めた。翌年に締結された偉大なフベルトゥスブルク条約はこの二つに続いて、フリードリヒのような天才的君主を一般に認められたヨーロッパの平和の維持者に、そして長らく荒廃していた我々の祖国の恩人にするあの内的な強靭さと強さの基礎を据えた。ヘルツベルク伯爵は、もう一人の大臣*3に助言を乞うことなくこれらの重要な条約を大王の国務大臣として発案して実行したが、これ以降、続く大きな同盟の条約を作成する際、ヨーロッパ全体で、しかし特にドイツで遵守されるべき〔勢力〕均衡に基づく自らの堅牢な政治体系に忠実であり続けることができた。そしてこの原則に従って、ポーランド分割条約、西プロイセン割譲条約、テッシェン条約、ドイツ諸侯同盟、そして最後一七九〇年にはライヒェンバッハ条約を完成させた。言うまでもなく、これらよりも小さな多くの条約や同盟も全て彼の筆に由来している。

 このように列挙しただけで既に、この偉大な政治家の経歴を記すことはフベルトゥスブルク条約以降のヨーロッパ政治史を詳論することにほとんど等しいことを確信させるのに十分である。シュリー*4がアンリ四世にとってどういう存在だったかということは、もし彼自らが可能な限り正直に執筆した回想録が残っていなければ、我々には決して知られなかっただろう。それと同様、ヘルツベルクがフリードリヒにとってどれほどの存在であったかは彼自身しか物語ることができない。そして彼が自らの約束を果たし、この忘れがたい王の歴史を彼にしか期待できない観点から提示するまでは、彼の伝記作者が彼について何を記そうともそれは不完全な試みにしかならないだろう。それでも我々には、ここに彼の肖像を掲載して*5一七九〇年に思いを馳せることが許されるだろう。この年ヘルツベルク伯爵はライヒェンバッハ条約を実現させたが、彼はその後すぐに外交問題に直接関与する立場から離れ、国王を始めとした全ての祖国を愛するプロイセン人から感謝に満ちた祝福の言葉を送られた。彼が国家に対して立てた功績の範囲を真剣に考慮してみると、この一人の男がヨーロッパ全体の命運に及ぼした影響に驚愕せざるを得ない。もし政治の原則が異なっていれば、それはプロイセンの官房に、決定的瞬間にあらゆる王国の関係を全面的に変更できたような全く異なる道を指示したかもしれない。確かに、彼の体系の偉大で本質的な要点はおのずと判明する公理であって、癒しがたい盲目に襲われていなければ誰もそれから逸れたりしないようなものであると考えるべきなのかもしれない。しかし政治においては、倫理学におけるように、修練のみが理論的図式を感覚される真理に変え、それを我々自身と一体化させるのである。この修練が欠けている場合しばしば、瞬間や情勢の上での必然が理論を忘却させかねないのだが、理論は経験を積んだ政治家の北極星なのである。

 プロイセンのように、秩序だけでなく、とりわけ、一世紀かそれよりも前にすでに据えられた権力と権勢を規則的に増大させる体系への強い愛着をその魂とし続けなければならない国家においては、それでも、現在の均衡が完全に崩壊する時までは、上述の要点が将来の大臣みなによって基礎に据えられなければならないだろう。もしプロイセンの官房が、財政を混乱させ、国庫を空にし、大々的な征服計画のために軍隊を犠牲にすることを始めようとするならば、たとえこれらの措置に直接の不都合は覚えないとしても、プロイセンが二〇年間ドイツで、否ヨーロッパ全体で維持してきた絶対的な重みを少なくとも減らすだろうし、そうすることで明らかに、尊敬すべきフランクリンが一七七四年に執筆した皮肉に満ちた指南書、『どうすれば大きな帝国から小さな帝国を作ることができるか』*6を真面目に守ることになると思われる。

 

 

*1:schwerer Thalerとあるが、当時の一般的な帝国ターラーと違うのかどうかいまいちよく分からない。

*2:アーデルングによれば、「ある国家の権利や関係に関わる文書」という意味。しかしここでは宣戦布告書とほぼ同義である。

*3:おそらく、ヘルツベルクと同時期に官房大臣を務めたカール・ヴィルヘルム・フィンク・フォン・フィンケンシュタイン伯爵(1714-1800)を指す。

*4:フランス王アンリ四世に仕え、後世名臣と讃えられたシュリー公マクシミリアン(1560-1641)。

*5:この記事冒頭の肖像画

*6:ベンジャミン・フランクリンがイギリス植民地大臣を風刺して書いた作品“Rules by Which a Great Empire May Be Reduced to a Small One“を指す。ただし正しい執筆年は1773年。