フィジー499ドル

アンシャン・レジームフランス史研究では必ずといってよいほど目にするロバート・ダーントンの『猫の大虐殺』。これに対して、ロジェ・シャルチエが書評論文「テクスト、象徴、フランスらしさ」("Text, Symbols, and Frenchness", Journal of  Modern History 57 (1985), pp. 682-95)を1985年に発表したが、それに対してダーントンはすぐさま、書評論文「歴史における象徴の要素」("The Symbolic Element in History", Journal of Modern History 58 (1986), pp. 218-234)で応答した。二人の間での主要な論点は、象徴という分析概念が果たして適切かどうかというもので、ダーントンは本論文でシャルチエからの批判に応答したものの、結局シャルチエは象徴よりも表象(représentation)のほうが適切だと考え、それが論文「表象としての世界」につながった。

…などという小難しい話はともかくとして、そのダーントンの応答論文の冒頭に話の導入として、「フィジー499ドル」という広告が何を意味するのかという議論が出てくる。スタイルとしてはスタンリー・フィッシュの「このクラスにテキストはありますか」と同様で、実は一般人には思いもよらない意味が大学文化に親しんでいる人間には読み取ることができるという話になっている。この一種の笑い話から重要な論点に話を繋げていくダーントンの手腕は執筆戦略を考える上でも役に立つと思うので、以下試みに訳してみた。

「フィジー499ドル」

記号論のゼミから帰宅する途中、面白い出来事があった。図書館のC階のある角を曲がると、ある学生のキャレル〔閲覧席〕の扉に『ニューヨーク・タイムズ』の広告が貼ってあることに気づいた。「フィジー499ドル」。チャールズ・S・パースの議論と記号理論によって訓練された私はすぐ、なるほど、これが記号だと認識した。そのメッセージは十分に明らかだった。つまり、フィジーへの往復便に499ドルかかるというわけだ。しかしその意味は違っていた。その張り紙は、冬の真っ最中に博士論文に磨きをかけている学生によって大学当局に向けられた冗談であって、おそらく次のような意味だった。「私はここから出たい。新鮮な空気を吸いたい、日光を浴びたい。もっと光を!*1」。諸君はこれに多くの注釈をつけることができるだろう。しかしこの冗談を理解するには、キャレルというのは学生が博士論文のために作業をする小部屋で、博士論文の執筆には長期間にわたる過酷な労苦が必要であり、プリンストンの冬は学生をまるでジメジメとした経帷子のように包み込むことを諸君は知らなければならないだろう。要するに、諸君は大学文化に精通していなければならないだろう。これは諸君が大学の中で生活しているならば大したことではないのだが、しかし、日光を浴びて新鮮な空気を吸いながらはしゃいでいる一般市民からキャレルの居住者を区別する何かである。我々からすると「フィジー499ドル」は笑える。諸君にとっては生意気に思われるかもしれない。私にとっては、これが古典的な学問的問題を提起した。すなわち、象徴はどのように働くのだろうか。

出典:Robert Darnton, "The Symbolic Element in History", Journal of Modern History 58 (1986), p. 218.

参考文献

 ダーントン『猫の大虐殺』

猫の大虐殺

猫の大虐殺

 

 『猫の大虐殺』の邦訳は三種類(1986年版、1990年版(岩波同時代ライブラリー)、2007年版(岩波現代文庫))あるのだが、実は原書の忠実な翻訳は1986年版のみで、他の版は原書に収録されている論文のうちいくつかをカットし、代わりにダーントンの別の論文を収録している。原書と対応させて日本語を読みたい人間からすると、1986年版のほうが実は使い勝手がよい。

シャルチエ「表象としての世界」

歴史・文化・表象―アナール派と歴史人類学 (NEW HISTORY)

歴史・文化・表象―アナール派と歴史人類学 (NEW HISTORY)

 

シャルチエの論文は171-207頁に収録されている。

*1:Mehr Licht! ゲーテの有名な臨終の言葉