ザルツマン『一八世紀ドイツ名士伝』より、「プロイセン王フリードリヒ二世」

一八世紀のドイツ語圏といえば、ペスタロッツィやフレーベルなど名だたる教育思想家を輩出したことでも知られているが、その一人に数えられるのがクリスティアン・ゴットヒルフ・ザルツマン(Christian Gotthilf Salzmann, 1744-1811)である。その彼が1802年に出版した本『一八世紀ドイツ名士伝』(Denkwürdigkeiten aus dem Leben ausgezeichneter Teutschen des achtzehnten Jahrhunderts, Schnepfenthal 1802)には、一八世紀のドイツ語圏で活躍した有名人たちの簡潔な評伝が多数収録されている。誰が扱われているかは巻末の索引(アルファベット順はS. 781-786、分野別索引はS. 787-796)を見てもらえば分かるが、バッハ、ヘンデルモーツァルトといったドイツにとりたてて興味のない人でも分かる人物だったり、ライプニッツやヴォルフ、メーザーや父モーザーのような一八世紀ドイツの学術・思想を知るうえで欠かせない人物の名前が見受けられる。今回はその中でも、一八世紀ドイツの政治家としては抜群の知名度を誇るであろうプロイセンフリードリヒ二世の項目を訳出してみた。※〔〕内の文章は訳者が挿入した。

 

プロイセンフリードリヒ二世

 フリードリヒは、これまで一国を治めた者のうち最高の天才の一人だった。彼の軍事的・政治的業績は同時代の奇跡だった。彼はほぼ半世紀にわたって自ら統治し、ヨーロッパ全体の模範となった新たな戦術を発明、少なくとも完成させた。彼は先を見通すことに長けた哲学者であり、古典的な歴史家であり、賢者らしい隠棲生活を送って自身や機知に富む頭脳の持ち主たちとの交流を楽しんだ。その仲間の間では彼自身がとても人好きのする社交家であったが、自らの時間を真似できない割合で業務と勤勉な余暇にまわした。この余暇に彼は読書、音楽、詩作への趣味で彩りを添えた。

 一七一二年一月二四日にベルリンで生まれたフリードリヒは、彼の父である国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世による軍国主義的で融通の効かない教育を受けた。しかしそれも、生まれつきの精神力を麻痺させることはできなかった。フリードリヒは軍人に育て上げられることになっていたものの、退屈な手仕事として扱われる使命に対する嫌悪感を覚えた。人は彼に芸術や学問に対する反感を植え付けようとしたものの、彼はそれらに対する燃えるような、絶やすことのできない愛情を抱いた。彼は完全にフランス文芸に浸って暮らしていた。秘密裡に父の元を離れ他国に身を寄せようという自ら立てた計画が明るみに出たため*1、彼はキュストリンに監禁されたが、ここで彼は自らも死の危機に瀕しながら、逃亡計画に加担した彼の寵臣カットが処刑されるさまを目撃しなければならなかった。その後彼の父は再び彼と和解し、一七三三年に彼をブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯女エリザベート・クリスティーナと結婚させた。しかし彼は生涯を通して、彼女に対する敬意を失わなかったものの、彼女とは一定の距離を保って暮らした。というのも、青年期のつかの間の情愛が過ぎ去ったあと、女性愛を彼は完全に捨てたからである。父の死(一七四〇年五月三一日)によって彼は即位し、これまで文芸に溺れてばかりだった若者が今や突然国王、英雄、政治家として行動し始めた。彼の注意を直ちに引いたのは三つの主要な対象、すなわち財政の整備、軍事力の増強、軍隊の養成である。装備を完全に整え、大々的な隊形変更の訓練を受け、いつでも戦闘を行う準備をしている常備軍は偉業を達成するに違いないことを彼の鋭い眼は見抜いた。直ちに予想に見合った成果が出た。というのも、マリア・テレジアがカール六世の相続問題に関して多くの勢力から悩まされていた時、フリードリヒもまたシュレジエンに関する要求を携えて登場したが、彼はテレジアに、彼女がニーダーシュレジエンを彼に割譲するならば遺産の残りを彼女に保証することを約束したからである。彼女がこれを断ると、一七四〇年に彼は突如嵐のようにシュレジエンに侵攻し、モルヴィッツとチャスラウもしくはコトゥジッツにおける二つの勝利でもってこれを征服した。その後一七四二年に彼は講和条約〔ブレスラウ条約〕を結び、シュレジエンの大部分が彼に割譲された。テレジアが失地を回復しようとしていることに気づくと、一七四四年彼は再び武器を取り、今度はもはや自らが弟子ではなく、将の将、計画を立てるのに最も長けこれを最も完璧に実行できる者であることを示した。彼はベーメン、オーバーシュレジエン、メーレンを奪い、遊撃部隊をハンガリーまで進撃させ、ヴィーンを脅かした。しかし彼の同盟国はすぐに撃破されたり、和平を結んでオーストリアの側についたりした。戦争の負担一切がフリードリヒに降りかかってきた。彼は征服地を放棄し弱体化した力をシュレジエンの防衛に集中させなければならないところまで追い込まれていたが、たった一日でやってのけた仕事、彼の思慮の産物である名高いホーエンフリートベルクの戦いが彼の状況を好転させた。彼は再びベーメンに侵攻し、ゾーアでの勝利によって自身を守った。彼は自らの冷静沈着ぶりと軍隊の訓練によって思いがけず勝利を自分の側に引き寄せたのである。一七四五年の快調に進んだ冬季出兵によって彼は戦争を終結させた。その出兵で彼はロートリンゲン公子カールを撃破し、勝者としてドレスデンに侵攻し、ここで彼に改めてシュレジエンを確保する講和条約を結んだ。平穏と平和の十二年は全て文芸と国内行政に捧げられた。農業、技術、工場、製造所、商業、財政、国家収入、国庫、軍隊、全てが増強され改善された。行軍、より簡素で素早い隊形変更、会戦に取り組む戦術の最も重要な部門の改造はフリードリヒの主要な発案だった。彼はギリシア人とローマ人が残したヒントを利用し、これを拡充して完成させ、彼の兵隊には絶えず新たな科学を応用して訓練を課し、そうすることで彼の軍を最も勇敢な軍隊よりも優れたものにした。拡張された彼の司令官としての才覚やこのより高度な戦術のおかげで彼自身と彼の国が救われる時がやってきた。数多くの勢力、圧倒的な数の軍隊に対して巧みに行われた七年間の戦争は、司令官の英知と彼の軍隊の勇気の勝利だった。オーストリアザクセン、ロシアが密かに軍備を整えていることを憂慮したフリードリヒは、一七五六年にザクセンを急襲し、ザクセン軍を壊滅させ、ロヴォジッツでオーストリアと会戦し、その戦いで陣地を固守した。翌年〔1757年〕の出兵はプラハでのオーストリア軍に対する完勝で始まった。しかしそのすぐ後、運命は彼に厳しい試練を課した。卓越した作戦行動と軍勢の勇気によって彼がほとんど勝ち取っていた勝利をダウン*2がコリンで彼の手からもぎ取ったのである。大損害を被って彼は撤退し、プラハの陣営を放棄してベーメンを明け渡さざるを得なかった。彼は戦闘に投入した歩兵の数があまりに少なかったことを自ら咎めた。「運命は今回私に背を向けた。彼女は女性だが、残念ながら私は女性に好まれるたちではない」と彼は記した。実際この瞬間から幸運が彼から離れてしまったように思われた。彼の征服地や自らの国の一部が失われた。彼に対抗する多くの敵対勢力、さらには帝国軍までも登場した。人は彼の敗北を認めた。しかし驚くべきことに、彼は寡兵を指揮してロスバッハでフランス軍と帝国軍とに対峙し、彼らを撃破し、そうすることでザクセンを解放し、急行してシュレジエンを救った。そして彼は消耗した寡兵で敵の大軍とロイテンで会戦したが、自らの軍事的天才と機動の卓越ぶりのおかげで彼は勝利し、シュレジエンを取り戻し、最も苦しい状況から幸運の絶頂まで上り詰めた。翌年〔1758年〕の出兵で目立つのはツォルンドルフにおけるロシア軍に対する勝利である。ホッホキルヒでダウンに奇襲された彼は、確かに絶望的な戦いの中で敗退せざるを得なかったが、しかし敵軍を改めて迎え撃つ準備を整えて整然と撤退した。翌年以降彼の状況はますます苦しくなっていき、自らの不運に立ち向かうにはその精神の全力を発揮しなければならなかった。危うく捕虜にされそうになったクネルスドルフの激戦〔1759年〕で彼はロシア軍を撃破したが、今度はラウドン*3が彼から勝利を掠め取った。シュレジエンで彼は最も危険な状況に陥った。敵の四つの大部隊が、リークニッツの彼の陣地を完全包囲する準備を整えていた。それでも彼は敵軍を出し抜き、ラウドンを撃破して急場をしのいだ。彼はザクセンのトルガウでダウンと注目すべき戦い〔1760年〕を繰り広げた。彼はこの戦いで敗北したため撤退しなければならないところであったが、オーストリア軍が不用意にもジプティッツの高地と多くの防備を固めた地点を放棄してしまった。王はこの幸運な偶然を利用し、撤退を敵軍に対する再度の勇敢な攻撃に転換して陣地を守った。一七六一年に彼はシュヴァイトニッツで、以前のリーグニッツと同じく四つの部隊によって包囲されたが、彼はこれを切り抜けた。ロシアの女帝エリザベートが死去したあと、ロシアとスウェーデンは彼の味方についた。しかしピョートルはすぐに倒され、エカチェリーナは中立を保った。オーストリア軍によって占領されたシュヴァイトニッツは王によって再び征服され、それからフベルトゥスブルク条約によって戦争は終結した。この戦争をフリードリヒはヨーロッパの半分を敵に回して戦い、一寸たりとも領土を失わなかった。逆に彼が得たものは、名声と威信という砦であった。これによって彼は残りの生涯の間平和を保つことを自らに誓った。というのも、ヴィーン宮廷のバイエルンに対する要求に対抗するためにフリードリヒが企てた一七七八年の短い出兵〔バイエルン継承戦争〕はほとんど戦争に数えることができないからである。彼は戦争と砲声に飽き飽きしていたが、だからといって軍事業務を疎かにすることは最期の時までなかった。彼の国の安全と幸福は軍事力にかかっていることを十分に知っていたからである。

 プロイセン国家は軍国主義国家であり、第一級の国家の地位を維持しようとするならそうでなければならない。だからフリードリヒは軍人身分を非常に厚遇し、彼らに磨きをかけることに熱心に取り組み、国民全体に軍事的感覚を吹き込もうとし、軍隊を六万から二十万に増員し、新たな要塞を五つ建造し、壊れた要塞を再建し、そして軍事的な厳格さ、秩序、習俗を国家運営のあらゆる部門に導入した。一七六三年に平和が回復されたあと、彼は戦争がもたらした恐ろしい記憶を彼の国から消し去り、彼の国を平和の恩恵に浴させるために働いた。ヘルツベルク*4の計算によれば、この年以降フリードリヒによって約二億が改善、褒賞、施しのために使われ、六〇〇の村落が建設され、荒蕪地や沼沢地が開墾され、多くの製造所が設立され、輸出が顕著に増えた。人口は彼の即位以降ほぼ三分の一上昇した。シュレジエン、グラーツ西プロイセン、東フリースラントが彼の領土に加わった。彼は農奴制の廃止、賦役の軽減、共有地分配の促進によって農業を振興した。飼料栽培・桑の栽培、蚕の飼育ならびに絹の加工を振興し、あらゆる州に穀物貯蔵庫を設置し、外国産品がなくてもよいようにあらゆる営業と技術を彼の国に根付かせようとした。それでも彼は、外国商品の使用に関して自然的自由に少しも強制を課さなかった。関税と消費税の徴収権をフランス人に賃貸ししてそれらをレジーによって徴収したことは、領邦にとって少なからず抑圧的な措置であった。彼の治世の特徴は厳格な裁判であり、その全面的改革は哲学的精神によって起草された新たな法典によって開始された。彼は学制に便宜を図り、とりわけ、ギムナジウムでなおざりにされていた古典学習を活性化させようとした。芸術と学術の普及は彼にとって切実な問題だった。ただし彼はドイツ語やドイツ文芸には冷淡な態度をとった。フランス語やフランスの上品な著作の優雅さに慣れきっていたのである。彼は聡明な哲学的頭脳の持ち主として、政治的問題や人間の知や意見の様々な対象に関して啓蒙された、自由な考えを口頭や著作上で広め、啓蒙と時事評論を愛好・優遇し、理性的で適法な自由を称賛した。哲学や宗教の問題において彼自身は懐疑主義者であって、キリスト教の友ではなかった。彼はこれを青年時代に敬虔主義的で極端なかたちでしか知ることができなかったのである。しかし彼は各人に各人の信仰を委ね、良心に対する強制を嫌悪した。彼は最も厳密な意味で単独支配者であったが、統治者としては、ヘルツベルクのような人物の助言や補助を蔑んだりはせず、司令官としては将官の意見を蔑んだりはしなかった。他のあらゆる領域と同じく、彼は文筆家としても劣らず偉大であって、ブランデンブルク家の歴史に関する著作や同時代史の回想録は、カエサルの戦記〔『ガリア戦記』と『内乱記』〕と同様、彼の叙述の才能や彼の精神を記念する、そして後者〔『同時代史』〕は彼の事績を記念する不滅の遺産である。彼はフランス的な機知と軽妙さでもって詩を作ったが、本来の意味で詩的な精神に比べると、彼にはおそらく想像力が、ことによると心情も欠けていた。というのも彼はそもそも心情の人というよりも知性の人であって、彼は人間を愛さず、交流していたわずかな人々に関しても、心情と性格ではなく精神、明敏さ、機知を高く評価したからである。彼の最後の称賛すべき事績は諸侯同盟の創設であった。一七八六年八月一七日に彼は死去した。ヨハネス・ミュラー*5いわく、「フリードリヒは、自らに満足する人生を送ったのと同じようにして、孤独に、彼の剛毅さが醸し出す威厳を完全に保ったまま死んでいった。人が夜になって仕事を終えると疲れた身体を眠りに委ねるのと同じく、帝国等族の状況とヨーロッパ全体の利害が諸侯同盟によって確定され保障されたあと、フリードリヒは太古の英雄たちのもとへと下っていった」。

*1:〔訳注〕原文ではDer entdeckte Plan zu einer heimlichen Entfernung und Verbindung, den er entworfen hatteで、Entfernungが父あるいは国から離れることを指しているのはいいとして、Verbindungがよく分からない。

*2:Leopold Joseph Maria Graf Daun, 1705-1766。七年戦争時のオーストリア軍総司令官で、しばしばフリードリヒを苦しめた。

*3:Ernst Gideon von Laudon, 1717-1790。慎重な作戦をとったダウンに対して攻撃的な戦術を好んだ。

*4:Ewald Friedrich von Hertzberg, 1725-1795。フリードリヒ二世フリードリヒ・ヴィルヘルム二世のもとで外交政策を担当するが、後者と外交方針をめぐって衝突したため晩年は不遇をかこった。本文で言及されているのはおそらく、ヘルツベルクがベルリン王立アカデミーでの講演で発表した統計。ただし毎年統計を発表していたため、どの年度かはいまのところ分からない。

*5:Johannes von Müller, 1752-1809。スイス出身の歴史家・政治家。引用されている文章は、彼の著作『諸侯同盟史』(Darstellung des Fürstenbundes, 2. Aufl., Leipzig 1788, S. 296, 297)に見られる。