若きハルデンベルクの放埒

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 近代ドイツ史を語る上で欠かせない人物の一人といえば、カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク(Karl August von Hardenberg, 1750-1822)である。ハノーファーの貴族出身の彼は、ハインリヒ・フリードリヒ・カール・フォン・ウント・ツム・シュタイン(Heinrich Friedrich Karl vom und zum Stein, 1757-1831)と同時期にプロイセン改革に携わって数々の自由主義的改革を断行し、また解放戦争においてナポレオン打倒の政略をめぐらし、19世紀プロイセンの礎を築いた。そんな彼の大学時代のやんちゃぶりを記したロタール・ガルの伝記の一節(Lothar Gall, Hardenberg: Reformer und Staatsmann, München 2016, S. 18)が興味深かったので、以下試みに訳してみた。

 

 ハルデンベルクがまだライプツィヒに滞在している間にゲラート*1が彼の両親に詳しい手紙を書き送り、その中でゲラートがこの青年の知識欲、勤勉さ、あらゆる方面に開かれた知性を褒め称え、彼を成長途中の紳士の模範として描写したことは、両親を安堵させた。息子は故郷の環境から解放されたことをいいことに、勉学以外の目的をも追求しているのではないかという考えは払拭された。この学生にはライプツィヒでの生活と勉学のために元々潤沢な仕送りが与えられていたが、それをはるかに上回る膨大な出費をみれば、そのような考えが両親の頭に浮かんできても不思議ではなかった。ハルデンベルクは借金を重ね始めたが、これは以降生涯彼につきまとうことになる。

 彼の激しい出費はとりわけ、彼が毎日のように準備した会食や宴会によって生じた。彼が1780年代後半にブラウンシュヴァイクでしたためた『我が健康状態に関するメモ(Aufzeichnungen über meinen Gesundheitszustand)』では簡潔にこう記されている。ハルデンベルクは「若い頃、飲んだくれや食道楽ではなかったにせよ、しばしば愉快な集まりで大酒を喰らい、盛んな食欲の赴くまま、おそらくは健康に良い量以上に食べた」。これに数々の艶事が加わったが、同じ箇所で彼は手短にこう記している。「私は決してふしだらではなかったが、しかし人生のある時期には愛の快楽をかなり、そして時にはおそらく過度に楽しんだ」。これはとりわけ彼のライプツィヒ時代に関係することであったが、その頃の不品行について両親はほとんど何も知らなかった。ハルデンベルクは当時、彼の生活と行動について週毎に報告しなければならなかった家庭教師の監視の目を、家庭教師の態度の悪さを訴えるという策略で免れていたからである。

 

 

…当時の大学生の乱暴狼藉は、同時期にライプツィヒにいたゲーテの『ファウスト』からも窺い知ることができるけれども、ハルデンベルクはまさにそのタイプの学生だったようである(もちろん真面目に勉強もしていたようだが)。後にプロイセンのみならずヨーロッパの政局を左右した大政治家が、「飲む・打つ・買う」(もはや死語かもしれない)を地で行っていたと想像すると、なんだか人間味を感じるし、大学生のやんちゃにも多少は目を瞑ろうという気になる。というか瞑って下さい、お願いします。

 

Hardenberg: Reformer und Staatsmann

Hardenberg: Reformer und Staatsmann

  • 作者:Gall, Lothar
  • 発売日: 2018/07/03
  • メディア: ペーパーバック
 

 

*1:Christian Fürchtegott Gellert, 1715-1769。『寓話と物語』(Fabeln und Erzählungen)など。ゲーテの『詩と真実』には彼の講義についての詳しい描写がある。

幸田露伴『蒲生氏郷・平将門』(大正14年)

 2020年最初の読書は幸田露伴の史伝『蒲生氏郷平将門』。

蒲生氏郷,平将門

蒲生氏郷,平将門

 

蒲生氏郷を、奥州仕置後のライバル伊達政宗との対比で描く『蒲生氏郷』も読み応えがあったのだが、一端のパトリオットとしては『平将門』こそ読みたかった部分である。

平将門』の基本的な特徴であり面白いところは、将門を名分論的観点から逆臣・叛臣として描くのではなく、一種の侠客として描くところ、従って将門の事跡を一種の任侠物として構成したところだろう。将門を反逆者として描くのは皇国史観華やかなりし頃であれば否定的評価であるし、逆に戦後であればある種の好意的評価であろう。しかしそういった名分論を超えた地平で、私闘が徐々に坂東全体を巻き込む謀反に転化していく物語を軽妙な筆致で描き出す、それがこの小説の魅力である。

以下、その中でも特に印象深い文章を二つほど。(表記は旧字体の漢字のみ通用字体に改める。)

誰にでも突掛かりたがる興世王も、大親分然たる小次郎〔相馬小次郎の略、要するに将門のこと――引用者注〕の太ッ腹なところは性に合ったと見えて、其儘遊んで居た。多分二人で地酒を大酒盃かなんかで飲んで、都出の興世王は「どうも酒だけは西が好い、いくら馬処の相馬の酒だって、頭の中でピンピン跳ねるのはあやまる、将門、お前の顔は七ツに見えるぜ」なんのかのと管でも巻いてゐたか何様か知らないが、細くない根性の者同士、喧嘩もせずに暮して居た。(217-218頁)

興世王は武蔵権守として着任した際に土豪と揉めて将門に仲裁されたが、その後将門に従い、新皇即位の際の除目で上総守に任命された人物であるが、その彼と将門の関係は親分子分の関係として描かれているわけである。

もう一つ、下総国民として見過ごせない一節。

常陸下総といへば人気はどちらも阪東気質で、山城大和のやうに柔らかなところでは無い。野山に生へる杉の樹や松の樹までが、常陸ッ木下総ッ木といへば、大工さんが今も顔をしかめる位で、後年の長脇差の侠客も大抵利根川沿岸で血の雨を降らせあってゐるのだ。神道徳次は小貝川の傍、飯岡の助五郎、笹川の繁蔵、銚子の五郎蔵と数へ立ったら、指がくたびれる程だ。元来が斯様いふ土地なので、源平時分でも、徳川時分でも変りは無いから、平安朝時代でも異なっては居ないらしい。(224-225頁)

要するに将門の乱は天保水滸伝とおおよそ同じだというわけである。こういう書きぶりが積み重ねられている結果、読者には任侠物風の講談の延長として将門の物語が受け取られたのではないだろうか。まあ、幸田露伴の小説を読んだのは初めてなので、どういう狙いなのかなどという重大な問題は論じることはできないのだけれど。

 

 

2019年5月の読書記録

近代思想

・ゲルハルト・エスライヒ『近代国家の覚醒』

近代国家の覚醒―新ストア主義・身分制・ポリツァイ

近代国家の覚醒―新ストア主義・身分制・ポリツァイ

 

 収録論文の情報については次の記事を参照。

geistesarmut.hatenablog.com

山内進『新ストア主義の国家哲学』

 エスライヒの研究を出発点としつつ、初期近代において近代国家の概念を確立した思想家としてリプシウスの意義を強調する研究。17・18世紀の政治思想を論じるうえで新ストア主義の影響というのはよく言及される(特にドイツ語圏の研究で)テーマであるが、この本を読むことでその思惟構造や力点の在り処がよく分かるようになる。

近代ドイツ

・山本道雄『クリスティアン・ヴォルフのハレ追放顛末記』

 カントの批判哲学以前、ドイツの学識共和国を支配していたのはクリスティアン・ヴォルフの哲学であるが、その哲学をカント哲学との接点も意識しつつ論じた論文、そしてヴォルフのラテン語著作の抄訳として『哲学一般についての予備的叙説』が収録されている。ヴォルフの哲学体系、そしてそれが同時代に与えたインパクトを知るにはこの本を読むに如くはない。

・井川義次『宋学の西遷』

宋学の西遷―近代啓蒙への道

宋学の西遷―近代啓蒙への道

 

 18世紀ヨーロッパの啓蒙主義の出発点には朱子学を経由した儒教思想があった――この刺激的なテーゼをこの研究は、イエズス会士(クプレ、ノエル)の儒学経典のラテン語訳の検討、そしてそれに依拠しつつ、神認識を持たないまま幸福な国家を造ることに成功した(古代)中国の英知を称揚するクリスティアン・ヴォルフの講演『中国人の実践哲学に関する講演』といった史料を綿密に検討して裏づけている。ヨーロッパ啓蒙主義の研究にとって儒学朱子学)が根本的に重要となることを気づかせてくれる。

現代思想

アガンベンホモ・サケル

ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生

ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生

 

アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人

 

 大学院のゼミでアガンベンの研究書を講読しているため、これを幸いとばかりに読んでみた。いずれもホモ・サケルというシリーズの一環にあたるわけだが、現代政治の範例(パラダイム)を収容所だと断定するアガンベンの議論を見る上では、さしあたりこの二冊から出発するのが良いように思われる。

プリーモ・レーヴィ『これが人間か』

プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』

溺れるものと救われるもの (朝日選書)

溺れるものと救われるもの (朝日選書)

 

 『アウシュヴィッツの残りのもの』の出発点がプリーモ・レーヴィの「ムーゼルマン」をめぐる議論――アウシュヴィッツの完全な証人はムーゼルマンである――にあるというのは、『残りのもの』を一読すればすぐ分かる。というわけで、アガンベンの優れて哲学的・抽象的な議論の背景を知るべくレーヴィの邦訳二冊を読んでみた。いずれも、アウシュヴィッツという人間の途方もない残虐行為の場で、人間がどのような姿を見せたのかを克明に描き出している。またそれと同時に、アウシュヴィッツの証言者たちが戦後どのような経験をしたか、どのような議論に巻き込まれたのかについてもこの二冊から得るところがたくさんある。

 

 

 

フィジー499ドル

アンシャン・レジームフランス史研究では必ずといってよいほど目にするロバート・ダーントンの『猫の大虐殺』。これに対して、ロジェ・シャルチエが書評論文「テクスト、象徴、フランスらしさ」("Text, Symbols, and Frenchness", Journal of  Modern History 57 (1985), pp. 682-95)を1985年に発表したが、それに対してダーントンはすぐさま、書評論文「歴史における象徴の要素」("The Symbolic Element in History", Journal of Modern History 58 (1986), pp. 218-234)で応答した。二人の間での主要な論点は、象徴という分析概念が果たして適切かどうかというもので、ダーントンは本論文でシャルチエからの批判に応答したものの、結局シャルチエは象徴よりも表象(représentation)のほうが適切だと考え、それが論文「表象としての世界」につながった。

…などという小難しい話はともかくとして、そのダーントンの応答論文の冒頭に話の導入として、「フィジー499ドル」という広告が何を意味するのかという議論が出てくる。スタイルとしてはスタンリー・フィッシュの「このクラスにテキストはありますか」と同様で、実は一般人には思いもよらない意味が大学文化に親しんでいる人間には読み取ることができるという話になっている。この一種の笑い話から重要な論点に話を繋げていくダーントンの手腕は執筆戦略を考える上でも役に立つと思うので、以下試みに訳してみた。

「フィジー499ドル」

記号論のゼミから帰宅する途中、面白い出来事があった。図書館のC階のある角を曲がると、ある学生のキャレル〔閲覧席〕の扉に『ニューヨーク・タイムズ』の広告が貼ってあることに気づいた。「フィジー499ドル」。チャールズ・S・パースの議論と記号理論によって訓練された私はすぐ、なるほど、これが記号だと認識した。そのメッセージは十分に明らかだった。つまり、フィジーへの往復便に499ドルかかるというわけだ。しかしその意味は違っていた。その張り紙は、冬の真っ最中に博士論文に磨きをかけている学生によって大学当局に向けられた冗談であって、おそらく次のような意味だった。「私はここから出たい。新鮮な空気を吸いたい、日光を浴びたい。もっと光を!*1」。諸君はこれに多くの注釈をつけることができるだろう。しかしこの冗談を理解するには、キャレルというのは学生が博士論文のために作業をする小部屋で、博士論文の執筆には長期間にわたる過酷な労苦が必要であり、プリンストンの冬は学生をまるでジメジメとした経帷子のように包み込むことを諸君は知らなければならないだろう。要するに、諸君は大学文化に精通していなければならないだろう。これは諸君が大学の中で生活しているならば大したことではないのだが、しかし、日光を浴びて新鮮な空気を吸いながらはしゃいでいる一般市民からキャレルの居住者を区別する何かである。我々からすると「フィジー499ドル」は笑える。諸君にとっては生意気に思われるかもしれない。私にとっては、これが古典的な学問的問題を提起した。すなわち、象徴はどのように働くのだろうか。

出典:Robert Darnton, "The Symbolic Element in History", Journal of Modern History 58 (1986), p. 218.

参考文献

 ダーントン『猫の大虐殺』

猫の大虐殺

猫の大虐殺

 

 『猫の大虐殺』の邦訳は三種類(1986年版、1990年版(岩波同時代ライブラリー)、2007年版(岩波現代文庫))あるのだが、実は原書の忠実な翻訳は1986年版のみで、他の版は原書に収録されている論文のうちいくつかをカットし、代わりにダーントンの別の論文を収録している。原書と対応させて日本語を読みたい人間からすると、1986年版のほうが実は使い勝手がよい。

シャルチエ「表象としての世界」

歴史・文化・表象―アナール派と歴史人類学 (NEW HISTORY)

歴史・文化・表象―アナール派と歴史人類学 (NEW HISTORY)

 

シャルチエの論文は171-207頁に収録されている。

*1:Mehr Licht! ゲーテの有名な臨終の言葉

ゲルハルト・エストライヒ邦訳論文リスト

戦後ドイツで最も有名な歴史学者の一人、ゲルハルト・エスライヒ(Gerhard Oestreich, 1910-1978)。彼は初期近代ヨーロッパの新ストア主義、なかんずくその代表者であるユストゥス・リプシウスの研究、またその研究に端を発する「社会的紀律化(Sozialdisziplinierung)」という分析視座の提唱で知られている。また彼の学問的祖父にあたるオットー・ヒンツェ*1の論文集の編纂など、社会学的な議論も取り込むドイツ国制史の伝統の意識的な継承といった側面も注目される。先日の授業でフーコーの統治性の議論が話題になった際、改めてエスライヒの議論をおさえておく必要を感じたので、以下備忘録代わりに邦訳論文リストを作成してみた。

 リストを作成する際、以下の二冊の論文集を参照した。

F・ハルトゥング他『伝統社会と近代国家』、成瀬治編訳、岩波書店、1982年。*2

伝統社会と近代国家

伝統社会と近代国家

 

 

ゲルハルト・エスライヒ『近代国家の覚醒』、阪口修平・千葉徳夫・山内進訳、創文社、1993年。*3

近代国家の覚醒―新ストア主義・身分制・ポリツァイ

近代国家の覚醒―新ストア主義・身分制・ポリツァイ

 

 

リスト

1. Justus Lipsius als Theoretiker des neuzeitlichen Machtstaates, in: Geist und Gestalt des frühmodernen Staates, Berlin 1969, S. 35-79.=「近代的権力国家の理論家 ユストゥス・リプシウス」、『近代国家の覚醒』、7-79頁(山内進による解題論文「新ストア主義と近代国家、そしてプロイセン・ドイツ史」、同書80-97頁つき)。

2. Strukturprobleme des europäischen Absolutismus, in: Geist und Gestalt, S. 179-197.=阪口修平・平城照介訳「ヨーロッパ絶対主義の構造に関する諸問題」、『伝統社会と近代国家』、233-258頁。

3. Reichsverfassung und europäisches Staatensystem 1648 bis 1789, in: Geist und Gestalt, S. 235-252.=石川武訳「帝国国制とヨーロッパ諸国家体系(一六四八年―一七八九年)」、『伝統社会と近代国家』、203-231頁。

4. Ständetum und Staatsbildung in Deutschland, in: Geist und Gestalt, S. 277-289.=「ドイツにおける身分制と国家形成」、『近代国家の覚醒』、99-116頁(阪口修平による解題論文「国制史研究とエスライヒ」、同書117-125頁つき)。

5. Policey und Prudentia civilis in der barocken Gesellschaft von Stadt und Staat, in: Strukturprobleme der frühen Neuzeit, hrsg. v. Brigitta Oestreich, Berlin 1980, S. 367-379.=「ポリツァイと政治的叡智――ドイツ・バロック時代の都市と国家における社会・政治思想の展開――」、『近代国家の覚醒』、127-145頁(千葉徳夫による解題論文「近世における社会的紀律化とポリツァイ」、同書146-154頁つき)。

 

*1:ヒンツェ→フリッツ・ハルトゥング→エスライヒという系譜になる。

*2:なお本論文集にはエスライヒの論文が2本収録されているが、著者名は「ゲルハルト・エーストライヒ」と表記されている。

*3: 各論文に解題論文が付録として足されているので、エスライヒの議論をよりよく理解するうえで参考になる。

2019年4月の読書記録

2019年4月の読書記録と題して、4月に読み切ったり論文一本読んだり講読で読み込んだりしている本の感想を書き連ねます。振り返ってみると、近代フランス関係が半分くらいを占めているせいで、自分が近代フランス思想の研究者なのだとうっかり錯覚してしまいそうになる。これは良くないと思うので、5月はもっと近世近代のドイツ人に寄り添いたい。

古典古代

・『プラトン全集3(『ソピステス』、『ポリティコス』)』

プラトン全集〈3〉ソピステス・ポリティコス(政治家)

プラトン全集〈3〉ソピステス・ポリティコス(政治家)

 

ティマイオス』や『法律』とならぶ後期プラトンの代表的な対話篇二編を収録。「ソフィストとは何者なのか」、「政治家とは何か」という問いをめぐって、「エレアからの客人」とテアイテトス(『ソピステス』)、若いソクラテス(『ポリティコス』)とが対話を繰り広げる。とくに『ポリティコス』は、国家論と宇宙論が緊密に結びついている『国家』以来のプラトン政治思想のスタイルを再確認させてくれる。

・Joachim Ritter, »Das bürgerliche Leben«, in: ders., Metaphysik und Politik, S. 57-105.

Metaphysik und Politik: Studien zu Aristoteles und Hegel

Metaphysik und Politik: Studien zu Aristoteles und Hegel

 

 著者のアリストテレス研究とヘーゲル研究の成果を収めた論文集『形而上学政治学』の第三論文(ちなみに本書には日本語訳もある「ヘーゲルフランス革命」も収録されている)。人間にとっての幸福と国家(ポリス)にとっての幸福を同一視するアリストテレスの主張を、『政治学』や『ニコマコス倫理学』の議論から解明していく。その主筋以外も、アリストテレスのテクネー論やアレテー論についても有益な示唆が得られる。

近代ドイツ

・寄川条路『ヘーゲル――人と思想――』

ヘーゲル―人と思想―

ヘーゲル―人と思想―

 

 序章でヘーゲルの生涯を概観したあと、第二章から第九章で各著作・論考の概要をまとめる。第一〇章ではヘーゲル学派が、第一一・一二章では現代思想ヘーゲル哲学の関係が論じられる。著者のヘーゲル哲学解釈については他の研究書のほうが詳しいだろうが、各章末や巻末の文献案内で、ヘーゲルのドイツ語の著作集でどれがどの程度信頼できるか、日本語でどういう研究書があるのかがすぐ分かるので、個人的にはそちらのほうがすぐに役立つと思う。

・今野元『フランス革命神聖ローマ帝国の試煉――大宰相ダールベルクの帝国愛国主義

 本書の出発点は、一八〇六年に帝国大宰相ダールベルクが帝国を脱退してナポレオンを庇護者とするライン同盟に加入したのはいかなる動機に基づくのか、という問いである。この問いに答えるべく、第一部ではローマ皇帝ヨーゼフ二世の帝国政策にダールベルクがどう対峙したのか、第二部ではフランス革命やナポレオンにダールベルクがどう対峙したのかが丹念に叙述される。その結果として本書は、ダールベルクは「第三のドイツ」――普墺の二大領邦を除くドイツ――の維持を目指す連邦主義的な帝国愛国主義を奉じてヨーゼフの統一主義的な帝国愛国主義と衝突し、ライン同盟加入に際しても、フランスの権力者に追従して皇帝と対決したとしてもなお帝国諸身分の利益をはかることができると考えたからだ、という解釈を提示する。ここ半世紀来の帝国研究を踏まえつつ、政治家の言動を通じて時代全体に光を当ててくれる非常に有益な研究だろう。

・Hegel, Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften, T. 1.

Enzyklopadie Der Pholosophischen Wissenschaften Im Grundrisse(1830)Tl1

Enzyklopadie Der Pholosophischen Wissenschaften Im Grundrisse(1830)Tl1

 

今年で七年目を迎えたヘーゲル読書会の今年度の文献。いわゆる『小論理学』。4月はEinleitungの§1~§11までを訳読。当該箇所は、哲学とは何か、それは何を原理とし、何を目的とし、他の分野(とくに宗教や近代科学)とどう違うのか、といった問題に関わっている。「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という悪名高き命題に関する注釈(§6)も登場するので、ヘーゲル哲学全体の性格を考えるうえで非常に興味深い箇所なのではないかと思う。

近代フランス

・サド『ジュスチーヌ』

ジュスチーヌまたは美徳の不幸 (岩波文庫)

ジュスチーヌまたは美徳の不幸 (岩波文庫)

 

 サドには「ジュスチーヌ物」といわれる三部作があるが、その第二作。現世における徳行(本作ではとりわけ貞節の固守)が永遠の浄福につながると確信するヒロイン、ジュスチーヌがひたすら悲惨な目に遭うという筋立て。彼女の変名「テレーズ」にせよ、ジュスチーヌに迫る悪人たちがひたすら唯物論的な世界観を説くところにせよ、先達『女哲学者テレーズ』の影響を強く感じさせる。どぎつい性的描写はともかくとして、人間の性衝動や殺人衝動を「自然」の名のもとに正当化し、かつ性的暴行を自然によって女よりも強い力を与えられた男の権利だとする各登場人物の語りは、「自然」なる規範の有効性を疑わせてあまりある。自然法自然権なる概念に対する極上のパロディーに仕上がっている名作。

モリエール『町人貴族』

町人貴族 (岩波文庫 赤 512-6)

町人貴族 (岩波文庫 赤 512-6)

 

 貴族然とした生活スタイルを身に着けようとするブルジョワジーを風刺する喜劇。フランス絶対王政という社会的コンテクストを踏まえるといっそう味わい深い。

ボーマルシェフィガロの結婚

フィガロの結婚 (岩波文庫 (32-522-1))

フィガロの結婚 (岩波文庫 (32-522-1))

 

 アンシャン・レジーム研究ではむしろ、初夜権なる実在が怪しい権利を持ち出す本作が好評を博したことに、貴族に対する社会的信頼の低下を見るのが一般的であろう。なお岩波文庫版はどうにも古臭い文体なので、他の版も読んでみるべきではないかと思った。

・リン・ハント『フランス革命と家族ロマンス』

フランス革命と家族ロマンス (テオリア叢書)

フランス革命と家族ロマンス (テオリア叢書)

 

 定期的に訪れるリン・ハント祭りの一環。というか、フュレ以降の政治文化の変動に着目する革命史研究で一番日本語で読みやすいのはこの人の研究書しかない(リシェとフュレの共著、ベイカーのInventing the French Revolution、誰か訳して…)。本書でハントは、フロイトから示唆を受けつつ、革命前後のフランス人の家族イメージの変遷と社会観・政治観の変遷の連関を描き出している。封印状発行の慣例などに見られる家長の専制を非難する文芸の流行、「兄弟」愛としてのフラテニテの諸相、マリー=アントワネットが女性の役割を定義する上で持った意味などなど、主に文芸作品を分析の中心に据えながら、その社会的政治的次元を鋭く析出している。

・リン・ハント『人権を創造する』

人権を創造する

人権を創造する

 

 大雑把に言えば人権思想史であるが、本書でも文芸が果たした役割が実に強調されている。アメリカ革命やフランス革命に先立つ18世紀に『新エロイーズ』や『パミラ』、『クラリッサ』といった作品がウケた事実から、境遇の異なる他者に対する共感という考え方が伝播し、それが人権思想の定着に寄与したという歴史解釈は、権利の哲学的基礎づけでは汲み尽くせない歴史の奥深さを示している。他方で末尾で共感だけでは権利擁護に十分でない点も指摘されていて、現代における実践を考えるうえでバランスのとれた歴史記述となっている。

・Sarah Maza, The Myth of the French Bourgeoisie

The Myth of the French Bourgeoisie: An Essay on the Social Imaginary, 1750-1850

The Myth of the French Bourgeoisie: An Essay on the Social Imaginary, 1750-1850

 

 今年度春学期の院ゼミ文献。4月はイントロと第一章まで。著者はイントロで、フランスに「ブルジョワジー」(=中産階級)なる階級は存在しないという刺激的なテーゼを提出しているが、そのテーゼを支えているのは、ある階級はその階級のポジティヴなアイデンティティやナラティヴが確立されて初めて存在することができるという、文化構築主義的な社会認識である。そしてブルジョワジーの不在という否定的テーゼから、フランスの政治的・社会的理想は負のイメージを付与されたブルジョワジーの対蹠物として形成されてきたというポジティヴなテーゼを導き出している。まず第一章では、アンシャン・レジームにおける社会記述の様々な試みを取り上げ、中産階級という意味でのブルジョワジーというカテゴリーがなかったこと、法言語に由来するブルジョワジーはむしろ或る種の特権集団、貴族同然の集団を指していたことを明示している。

近代哲学(史)

・ジョン・ロバートソン『啓蒙とはなにか』

啓蒙とはなにか:忘却された〈光〉の哲学

啓蒙とはなにか:忘却された〈光〉の哲学

 

 オックスフォード大学出版のVery Short Introductionシリーズの一冊。スコットランド啓蒙やナポリ啓蒙研究の第一人者の著者らしく、従来の啓蒙主義概説書では触れられるのことの少ない文筆家にも言及しつつ、啓蒙をヨーロッパ規模で共有された一つの知的営為として描き出す。「この地上における人間の境遇のより良い理解と、その理解をもとにした人間の境遇の実践的進歩とに捧げられた運動」という啓蒙の定義(27頁)自体はカッシーラーなどとも通じるありがちな定義ではあるが、革命を啓蒙の産物ではなく「啓蒙のアンチテーゼ」(166頁)と位置づけるところなど、随所に従来の啓蒙主義理解に対する批判的観点を打ち出している。

・ハッキング『確率の出現』

確率の出現

確率の出現

 

 確率概念が登場した際の思考の前提条件を様々な角度から照射している。従来重視されてきたパスカルだけでなく、近世の高級科学に対する低級科学(医学など)で生じた思考の変化、ライプニッツなどなど、様々なトピックから確率概念が分析されていく。ただし実際の計算も登場するので、確率が非常にニガテだった私は読むのに非常に難渋した。

 文芸

・ヒラリー・マンテル『ウルフ・ホール』(上下)

ウルフ・ホール (上)

ウルフ・ホール (上)

 
ウルフ・ホール (下)

ウルフ・ホール (下)

 

 ヘンリー八世の寵臣、しかしのちに処刑される政治家トマス・クロムウェルの伝記小説。権謀術数渦巻くヘンリーの宮廷でクロムウェルが頭角を現していくプロセスが描かれる。行動の理由を良心としか説明せず、ひたすら他人の説得を受け付けないトマス・モアの描写など、従来の見方とは対立する描写が際立っている。

武田綾乃響け!ユーフォニアム 決意の最終楽章前編』

 現在二年生編の劇場版アニメも公開中の『響け!ユーフォニアム』シリーズの最新作。巻末の告知によると後編は6月発売予定とのこと。今から非常に楽しみ。

 

 

フォルスター『一七九〇年回想録』より、「フリードリヒ・エヴァルト・フォン・ヘルツベルク伯爵」

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エヴァルト・フリードリヒ・フォン・ヘルツベルク伯爵

 一八世紀後半のプロイセンで有名な政治家といえば?と聞かれれば、普通はフリードリヒ二世の名前があがるだろう。しかしどれほど絶対主義的な国家であっても、下働きとして有能な官僚がいなければ政治はまわらない。ここで取り上げるヘルツベルク伯爵もそういう官僚の一人で、フリードリヒ二世およびフリードリヒ・ヴィルヘルム二世の二人の君主のもとで、主として外交問題を担当した人物である。また彼は、一七八〇年から一〇数年の間ベルリン科学アカデミーで毎年講演を行い、その中でプロイセンの政治方針を正当化したり統計調査の結果を公表したりした、一種の文筆家でもあった。

 その彼について記述した同時代の史料は枚挙にいとまがないほど沢山あるが、ここではあのゲオルク・フォルスターの記述を訳出してみた。彼が一七九三年に出版した『一七九〇年回想録』は、一七九〇年にヨーロッパ各国で起こった政治的事件を絵付きで紹介する著作だが、この著作の最後でヘルツベルク伯爵およびウィリアム・ピット(小ピット)が取り上げられている。ヘルツベルクが取り上げられるのは、一七九〇年にプロイセンオーストリア間で結ばれたライヒェンバッハ条約が直接の理由であろうが、一七九三年一月には第二次ポーランド分割がプロイセン・ロシア間で行われていたことを考慮すると、ヘルツベルクの外交政策の基本方針を勢力均衡に求め、これを維持しなければプロイセンの国際政治上の地位を確保できないと示唆するフォルスターの書きぶりは、当時のプロイセン外交政策に対する批判を意図しているように思われる。フォルスター自身の政治観を知る上でも(というよりもむしろフォルスター自身の政治観を知るためにこそ)興味深い史料である。

 

出典:Georg Forster, Erinnerungen aus dem Jahr 1790, Berlin 1793, S. 221-232.

 

 今日、二五〇〇平方マイルより大きな面積の国土で六〇〇万そこそこの住民を養うある小さな君主国が、その強靭さ、動員力、そしてその力の合目的的な利用によって、ヨーロッパの第一級の勢力、すなわちオーストリア、ロシア、イギリス、フランスと同等の地位に立ち、それらの勢力同士を絶えず揺らし続けている天秤においてそれぞれと比肩しうるほどにのし上がった。これらの勢力のうち最弱のイギリスは、人口数に目を向けると、ヨーロッパでは実に二倍をはるかに越える住民を、つまり一三〇〇万から一四〇〇万の住民を抱え、アジアでは東インド会社によって上記の数よりも多くの臣民を支配している。オーストリア、ロシア、フランスはそれぞれ、二〇〇〇万から二六〇〇万の人口を抱えている。

 これほど興味深い現象がどのような特殊な事情の結合によって今世紀に起こり得たのかをもう少し詳しく検討してみると、賢明な国政術の実証済みの単純な原則を堅く守り抜いたことが専ら、歴史の年代記に類例のないこのような唯一無二の結果をもたらすことができたということがすぐ分かる。全く負債のない国家、どこでもこれと同じほど貯め込むことのできない国庫、この偉大な目的を実現しただけでなく、ヨーロッパで――従って地球全体で――凌駕され得ない兵員数二〇万以上の軍隊を維持するための手段をやすやすと生み出すことのできた倹約的な行政にあっては、節度(Mässigung)が不動の原則であった。それに従ってプロイセンの官房は――ここで話題になっているのがこの官房であることを誰が疑うだろうか――ヨーロッパの命運に絶えず影響を及ぼした。節度、これは確かに、人間の名声欲、野心、強欲な性分の全てからすると、あまりにゆっくりとしか歩を進めず、ほとんど何も達成するところがないように見える。しかしプロイセンの場合、これは依然として間違いなくプロイセンの不可欠な拡大に向けて邁進しており、最終的にはその君主に、諸国の政治的均衡を仲裁する権力を付与するだろう。このことは、隣国全ての福祉と幸福に対する彼の神聖なる尊敬の念がますます彼のもとに信頼を集めるに違いないだけにいっそう確実である。この賢明なる節度は、ヨーロッパの政治的案件のその都度の状況に対して隙のない監視の目を向け、そして遠く将来を見越して、所期の目標を達成できると確実に期待できるまで決して駆動させられてはならない国力を節約することと結びついて、強圧的な征服の体系をはるか彼方に置き去りにし、確かに一瞬の間は輝かしい利益を約束するがほとんど常に危険な弱体化を結果として伴うあの軽率な行き過ぎなど眼中に入れない。何故なら実証済みの回復手段を利用することがいつでも可能なわけではなく、誰もが上手く利用できるわけではないからである。

 これと正反対の国家運営がもたらす悪しき帰結をどこか遠くに求める必要はない。フランス、オーストリア、ロシアの国力がそれらの人口と釣り合っていないことを見れば、その悪しき帰結は十分よく分かる。私がここでイギリスの名を挙げないのは、イギリスはたとえフランスと同じ額、つまり一五億重ターラー*1に相当する負債を抱えているとしても、膨大な海運業と商業によってその国債は維持されるからである。オーストリアとロシアの国債は総額の上ではより小さく見えるが、ただし産業がより乏しく資源が欠けている関係からして、それらの国債は基本的にはおそらく同じくらい財政を圧迫している。巨大な国家機械の装置がこれほど極度に緊張しているところでは、わずかな政治的重要性しか持たない企ての一つ一つが、人が残りの手持ち全てを賭ける危うい賭けに変わる。偶然には何も許さず、また逆に偶然に何も期待せず、英知、節制、慎みをもって自らの計画をその真の力を基準にして測る、慎重で、注意深く、冷静な家長に幸いのあらんことを。

 プロイセンの権勢の基礎がどれほど堅く永続的に、大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムや国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世によって据えられたとしても、彼らそれぞれの後継者〔フリードリヒ一世とフリードリヒ二世〕があれほど立派な建物を立てたのは、穴ぐらの上でしかなかった。この建設作業が完了したのはフリードリヒ二世の治世の最晩年であって、現在の君主のもとでその作業は続けられた――これは、これらの統治者たちが講じた措置と、深い洞察力を備えヨーロッパの情勢を完全に網羅しているある大臣の原則とが上手く調和したことの帰結である。実際、ヘルツベルク伯爵の長きにわたる政治経歴は、小さな王国から非常に強力な王国を形成しようとする巧みに仕上げられた実践的な試みと呼ぶことができるだろう。実績豊富な四三年の間、彼は一人で同時代のヨーロッパのあらゆる大臣よりも多くの官房業務を引き受け、どんな種類の宣言書(Staatsschriften)*2も自ら作成し、講和条約や同盟条約を発案し、起草し、それらに副署した。とはいえ彼はプロイセン君主政内部の案件から完全に離れたり、諸学の育成を放棄したりはしなかった。一七四五年以降ヘルツベルク伯爵は外務省で勤務し、すでに一七五六年には、七年戦争が始まる合図となった出兵をプロイセン王が開始する動機、とりわけ王に対抗して結ばれた同盟を示す真正の証拠を含む宣言書を執筆した。

 しかし、ヨーロッパの命運に対する彼のより有益で強力な影響は、一七六二年にプロイセンがロシアおよびスウェーデンと結んだ二つの講和条約によってようやく及び始めた。翌年に締結された偉大なフベルトゥスブルク条約はこの二つに続いて、フリードリヒのような天才的君主を一般に認められたヨーロッパの平和の維持者に、そして長らく荒廃していた我々の祖国の恩人にするあの内的な強靭さと強さの基礎を据えた。ヘルツベルク伯爵は、もう一人の大臣*3に助言を乞うことなくこれらの重要な条約を大王の国務大臣として発案して実行したが、これ以降、続く大きな同盟の条約を作成する際、ヨーロッパ全体で、しかし特にドイツで遵守されるべき〔勢力〕均衡に基づく自らの堅牢な政治体系に忠実であり続けることができた。そしてこの原則に従って、ポーランド分割条約、西プロイセン割譲条約、テッシェン条約、ドイツ諸侯同盟、そして最後一七九〇年にはライヒェンバッハ条約を完成させた。言うまでもなく、これらよりも小さな多くの条約や同盟も全て彼の筆に由来している。

 このように列挙しただけで既に、この偉大な政治家の経歴を記すことはフベルトゥスブルク条約以降のヨーロッパ政治史を詳論することにほとんど等しいことを確信させるのに十分である。シュリー*4がアンリ四世にとってどういう存在だったかということは、もし彼自らが可能な限り正直に執筆した回想録が残っていなければ、我々には決して知られなかっただろう。それと同様、ヘルツベルクがフリードリヒにとってどれほどの存在であったかは彼自身しか物語ることができない。そして彼が自らの約束を果たし、この忘れがたい王の歴史を彼にしか期待できない観点から提示するまでは、彼の伝記作者が彼について何を記そうともそれは不完全な試みにしかならないだろう。それでも我々には、ここに彼の肖像を掲載して*5一七九〇年に思いを馳せることが許されるだろう。この年ヘルツベルク伯爵はライヒェンバッハ条約を実現させたが、彼はその後すぐに外交問題に直接関与する立場から離れ、国王を始めとした全ての祖国を愛するプロイセン人から感謝に満ちた祝福の言葉を送られた。彼が国家に対して立てた功績の範囲を真剣に考慮してみると、この一人の男がヨーロッパ全体の命運に及ぼした影響に驚愕せざるを得ない。もし政治の原則が異なっていれば、それはプロイセンの官房に、決定的瞬間にあらゆる王国の関係を全面的に変更できたような全く異なる道を指示したかもしれない。確かに、彼の体系の偉大で本質的な要点はおのずと判明する公理であって、癒しがたい盲目に襲われていなければ誰もそれから逸れたりしないようなものであると考えるべきなのかもしれない。しかし政治においては、倫理学におけるように、修練のみが理論的図式を感覚される真理に変え、それを我々自身と一体化させるのである。この修練が欠けている場合しばしば、瞬間や情勢の上での必然が理論を忘却させかねないのだが、理論は経験を積んだ政治家の北極星なのである。

 プロイセンのように、秩序だけでなく、とりわけ、一世紀かそれよりも前にすでに据えられた権力と権勢を規則的に増大させる体系への強い愛着をその魂とし続けなければならない国家においては、それでも、現在の均衡が完全に崩壊する時までは、上述の要点が将来の大臣みなによって基礎に据えられなければならないだろう。もしプロイセンの官房が、財政を混乱させ、国庫を空にし、大々的な征服計画のために軍隊を犠牲にすることを始めようとするならば、たとえこれらの措置に直接の不都合は覚えないとしても、プロイセンが二〇年間ドイツで、否ヨーロッパ全体で維持してきた絶対的な重みを少なくとも減らすだろうし、そうすることで明らかに、尊敬すべきフランクリンが一七七四年に執筆した皮肉に満ちた指南書、『どうすれば大きな帝国から小さな帝国を作ることができるか』*6を真面目に守ることになると思われる。

 

 

*1:schwerer Thalerとあるが、当時の一般的な帝国ターラーと違うのかどうかいまいちよく分からない。

*2:アーデルングによれば、「ある国家の権利や関係に関わる文書」という意味。しかしここでは宣戦布告書とほぼ同義である。

*3:おそらく、ヘルツベルクと同時期に官房大臣を務めたカール・ヴィルヘルム・フィンク・フォン・フィンケンシュタイン伯爵(1714-1800)を指す。

*4:フランス王アンリ四世に仕え、後世名臣と讃えられたシュリー公マクシミリアン(1560-1641)。

*5:この記事冒頭の肖像画

*6:ベンジャミン・フランクリンがイギリス植民地大臣を風刺して書いた作品“Rules by Which a Great Empire May Be Reduced to a Small One“を指す。ただし正しい執筆年は1773年。